日の本の和を穢す大逆の徒を処刑することに否やはない。しかし我々は死に慣れてはいけない、忘れてしまうから。死を受け入れてはいけない、悼むことができないから。健全なる人心によって成立する人の世を保つに供養の精神は欠かせない。死を思ってこそ人は人であることができるから。なかんずく死によって太平に貢献する我々は死への慣れを厳に慎み、陳腐化と日常化に立ち向かい、すべからく衷心からの追悼を捧げるべきである。故にこそ、死は陰惨でなければならない。陰惨で凄惨で無残で残酷で、血と臓腑と糞便の悪臭に満ちた醜悪な死が、真なる追悼に必要なのだ。弾丸は死を遠ざけ、硝煙は死を覆い隠してしまう。刃による痛ましく惨たらしい死こそが死者への手向けになりうる、忘れることができないから。忘れず覚えていることに如く弔いがあろうか、いやない。故に死は痛ましく惨たらしくあらねばならない。不本意であれ日の本の糧となった命を忘れないために、哀悼痛惜の赤心を失わぬために、ひいては日の本の太平と安寧のために。痛ましかれかし、惨かれかし。
難しく考えずともよい。死者への尊厳に理解があるのなら、ただ思い、唱えればよい。さすれば真の手向けと弔いの何たるかを魂が咀嚼するだろう。復唱せよ。『痛ましかれかし、惨かれかし』。