Heinz Rolleke 2025-02-14 23:29:16 ID:35fa7e5d2 |
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さて、諸君。まことに奇怪な告発を目にしてしまった。これは果たして文学的試みなのか、あるいは新たなる奇怪な風習なのか。驚くべきことに、ある人物が公衆の面前において、彼の同級生がかつて犯した(と彼が主張する)数々の悪行を、いささか誇張気味に、しかも妙に陶酔的な筆致で述べている。しかしながら、我々が一歩引いてこの文章を見つめたとき、そこに真実はあるのか。それともただの酩酊した妄想なのか。
いや、考えてみてほしい。たとえば我々が目撃する「嘔吐」なるもの、これはたしかにある種の不名誉である。だがそれが何だというのか。公の場で吐瀉物を撒き散らした者がいたとして、それが即座に倫理的堕落の証明となるであろうか。いや、むしろ嘔吐とは人間が最も人間らしくある瞬間ではないか。高潔な紳士も、賢明な学者も、皆いずれ嘔吐する。いや、いずれ漏らすこともあろう。パンツを脱ぐことも、突如として奇妙な言葉を叫ぶことも、あらゆる人間が生涯に一度は経験するのではないか。
では、ここで問いたい。我々が今目にしているこの証言は、何を目指しているのか。
ひとつの仮説として、告発者は「優越感」を得ようとしているのではないかと考えられる。すなわち、「こいつは愚かであった、されば私は賢明である」という、安直な比較に基づく自己慰撫である。しかし、ここには決定的な落とし穴がある。この証言者は、己がクラスの一員であり、つまり「その場に居合わせた」ことを自ら暴露している。
諸君、これは奇妙なことではないか。もし彼が嘔吐を見、しっこを見、パンツを見、お尻を見て、それを「気持ちいいいいい」と感じたとするならば、果たして彼は傍観者と言えるのか? いや、むしろ彼こそが最も熱心な観察者であり、最も熱中した参加者ではないのか。
証言者はこう主張する──「こいつはとんでもないことをした!」と。しかし、我々はここで慎重に考えなければならない。人が何かを「とんでもない」と叫ぶとき、それはしばしば「自分も深く関わっていた」ことの裏返しではないか。
むしろここで注目すべきは、証言者の異様な熱量である。彼は件の同級生の行為を並べ立てながら、次第に抑えがたくなり、ついには「気持ちいいいいいあいあああああああ」などという、文章としての体裁すら忘れた叫びを上げるに至る。
つまり、我々が今目にしているのは単なる告発ではなく、「この告発者自身の情熱の発露」なのである。もしかすると彼は、告発の名を借りて、自らの内なる欲望を告白してしまったのかもしれない。
かくして、我々は結論を導く。「こいつは悪いことをした」と言い募る者こそ、最もその「悪」に魅せられているのではないか。いや、むしろ「悪いこと」なるものが実在するかすら疑わしい。あるのはただ、人間という生き物の滑稽で、愚かしく、そして愛すべき営みだけなのである。
──あるいは、証言者自身の心の奥底に潜む、秘められた嗜好を、無意識に告白してしまっただけなのかもしれない。
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