これは、私があの不思議な怪異と出会ったときの話である。
晩夏の夕暮れ、私は裏山を散策していた。あの山には奇妙な伝説がある。曰く、「夜に山道を歩けば、ぴょんぴょん跳ねる影がついてくる」だとか、「ひとりで歩いていると、ふいに隣に並んで歩く者が現れる」だとか。そのような怪談が講義の合間にひそひそと囁かれるものだから、好奇心旺盛な私はちょっとした探検気分で山道を踏みしめていた。
静寂の中、足音だけが響く。鳥の囀りすら途絶え、蝉の声も遠のいている。ふと、足元に影が伸びていることに気づいた。私の影はひとつだけではない。もうひとつ、見知らぬ影が並んでいる。
ぎょっとして振り向いた。だが、そこには誰もいない。
再び歩き出す。影はついてくる。前を見れば、私の影が二つある。ひとつは自分のもので、もうひとつは……何者の影なのだろう?
「ねえ、君は誰だい?」
思わず声をかけてみた。
すると、その影はぴょん、と跳ねた。影だけが。私の足元からぴょんぴょんと飛び跳ね、月明かりに染まる地面を踊るように駆け巡る。その影はどこか楽しげで、むしろ私が付いて行く側になっていた。
しばらく影の戯れを眺めていると、不意に影が止まった。そして、するりと形を変え、こちらを向いた。
「あなたは、どちらさま?」
それは、影自身の問いだった。
「え? いや、それを知りたいのはこちらのほうなんだけれど……」
「私の名は、かつて私だったもの。私は今、私であったことを忘れてしまった。でも、あなたが尋ねたから、あなたが私に私の名をつけてくれないか?」
私は一瞬、言葉を失った。自分の影に名をつけることなど、今まで考えたこともない。
「……じゃあ、『影ぼうし』はどうだろう?」
影は満足げにうなずいた、ような気がした。
「ありがとう。では、お礼にひとつだけ、あなたに秘密を教えよう」
影ぼうしは、私の足元をくるりと回った。そして、ひそひそと囁く。
「人の影は、心を映す。だが、影がもう一つ増えたとき、心の中の誰かが、そばにいるのかもしれないね」
その言葉を最後に、影ぼうしはすうっと地面に溶けるように消えた。
私はしばし、その場に立ち尽くした。そして、そっと自分の影を見つめる。そこには、確かに一つの影だけが伸びていた。
だが、ふと振り返ると、ほんの一瞬だけ、私の隣を歩くもうひとつの影を見たような気がした。
それ以来、私は夜道を歩くとき、自分の影がひとつかふたつか、気にするようになった。